先日ふと、数ヶ月前に「ラジオ深夜便内のラジオ文芸館で聴いたあの話を文字でもう一度読みたいな」と思い、おぼろげな記憶を頼りに探していた。
後半のいまでいうところのパンチライン直前の文章のクドさを覚えていたので、あのクドさは太宰治だよなあ……というぼんやり記憶から、夜明け前みたいなタイトルだったような、と検索するも島崎藤村がヒットしてしまう、いやそんなわけないな、と記憶をさらにたぐると、なんとなく橋という字が浮かんであ、そうだ、日の出前だ、(たぶん日の出桟橋を連想したのだと思う、われながらへんな脳をおお持ちですね)同じような意味合いだから勘違いか、と再び検索するもヒットせず。
夢?寝ぼけた?なんか大きく勘違いしてる?と、覚えてる内容とかラジオ文芸館とかキーワードを色々並べ替えて小一時間、太宰治の「花火」という短編がヒットしてしまう。
いや違うのよ、日の出前ってやつなのよ、、、と思いつつなんとなくレビューを読んでいたら内容はほぼ同じ。え?どういうこと?
Wikipediaに詳しく書いてあるので割愛するけれど、どうやらタイトルを変えて出し直した作品らしく、ラジオ文芸館の「日の出前」は改題後のもの、青空文庫には改題前の「花火」で記録されているという、たどり着いたらなんてことのない話、でした。
さて花火(日の出前)、なんとも胸のすっきりしない話なんだよね。わたしは所謂イヤミスが好物で定期的に摂取しているのでまあ好きといえば好きかも、みたいな作品ではある。
親族にやべーのがいるとめちゃくちゃ「わかる…」みたいなところもあったりはする。こんなの「わからない」ほうが、幸せだとは思うんだよ。わかっちまうと「ヴォエッ」ってなる。
もうちょい若かったら有原にかなり惚れてしまったかもしれない。なんかこう、惹かれるものがあるな、というのはわかる。今は無理だけど。
あとあのパンチライン直前の独特のクドさ、わかるけどもう少しなんかこう、ねえ、なあ。んまあこの作者のいいところといえばいいところかもしれない。あれがたまらない人も多いのだろうということもなんとなくワカル。